リボちら 2019年 2月号


とりで四方山話
大鹿城と小文間城の攻防

 現在の取手競輪場のあたりには、戦国時代に城があり、「取手」の地名の起源(砦=とりで)とも言われています。また小文間、稲や柴崎にも、戦国時代に城がありました。

「利根川図誌」(1855年刊行・赤松宗旦著)や、「常総戦蹟」(1909年刊行・東清次郎著)には、戦国の様子が記されているそうです。

 時は永禄四年(1561年)、戦国時代。小文間城主の一色宮内少輔政良(いっしきくないしょうまさよし)は、日頃から快く思っていなかった大鹿城主の大鹿太郎左衛門を倒そうと、300余騎を従えて大鹿城を急襲します。
 太郎左衛門は、150騎を従えて城の外で迎え撃ちますが、多勢に無勢の大鹿は押され、ついに太郎左衛門は城を捨てて逃れます。
 矢が当たり重傷を負って落ち延びる太郎左衛門のもとに、稲城主高井十郎直徳(なおのり)が助けに駆け付けます。直徳は太郎左衛門を稲城に引き入れ、精鋭200余騎を率いて攻め込みます。

 一方大鹿城での合戦の報せを聞いた現在の千葉県我孫子市内にあった柴崎城主の荒木三河守は、300余騎を率いて小文間城を攻撃します。小文間城を守る宮川左馬之助は、荒木勢の来襲に城を持ちこたえられないと判断し、小文間城を捨てて、大鹿城に入った政良に急を告げます。小文間城に取って返す一色勢は、途中の雁金山で待ち受ける荒木勢と、追ってきた高井勢に挟み撃ちにされます。一色勢の奮闘もむなしく、ついに敗れた政良は、落ち延びていきます。
※「ふるさと探訪」(取手市教育委員会発行)より引用


▲一色氏とゆかりのある福永寺

▲昭和40年ごろの大鹿城城跡(現在の取手競輪場周辺)
※写真所蔵:取手市教育委員会
 永禄4年に、このような合戦があったことを確実に証明することができる歴史資料はないと「ふるさと探訪」には記されています。
 しかし、小文間城の様子を今に残す土塁や、城主一色氏とゆかりの深い福永寺などから、物語の片鱗を感じることができます。
 残念ながら大鹿城の姿をうかがい知ることはできませんが、いにしえの姿に想いを馳せてみては如何でしょうか。
【取材協力・資料提供:取手市埋蔵文化財センター】




リボちら 2019年 2月号